アラン・ドロン(1935~)
名映画評論家、淀川長治が独特の講評を示した、ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』の主演を演じている俳優、それがアラン・ドロンである。整った端正な容姿、潔く頼もしい存在感が秀逸な人物である。
1935年、フランスのパリにて生まれる。本名はアラン・ファビエン・モーリス・マルセル・ドロン。父は映画館経営者である。1939年、4歳、両親の離婚により母に引き取られるも、母や義父、新たに生まれた妹たちとの生活が上手く立ち行かず、次第に荒廃。学生時代は素行、女性関係で問題を起こし、1951年、16歳の頃には強制的に精神病院へ入院させられる事態に陥る。1952年、17歳、混沌とした家庭環境から離れたい一心で、フランス外人部隊へ志願。同年、まともな戦闘訓練を受けないまま、第一次インドシナ戦争の戦線に送られる。1955年、20歳、インドシナ戦争の休戦に伴い除隊。アメリカ、メキシコを放浪後、翌1956年、21歳、フランスのパリに帰還。翌1957年、22歳、同地で知り合ったフランス人女優の勧めで俳優業に興味を持つ。同年、カンヌ映画祭に赴いた際、ハイウッドのエージェントにスカウトされ、本格的に俳優業のキャリアを始める。フランス映画『女が事件にからむ時』にて映画初出演を果たした後、1960年、25歳、ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』の好演にて大人気を博し、一気にスターダムを駆け上る。以後、『危険がいっぱい』、『パリは燃えているか』などのルネ・クレマン監督作品、『若者のすべて』、『山猫』などのルキノ・ヴィスコンティ監督作品他、異色西部劇『レッド・サン』、コミカルな要素を含んだ骨太のサスペンス劇『さらば友よ』、ジョンストン・マッカレー原作『アラン・ドロンのゾロ』など、様々な映画作品において主人公を力強く好演し続ける。1998年、63歳、『ハーフ・チャンス』への出演後、引退を宣言。が、しばらく休んだ後、俳優業を再開。映画、テレビドラマへの出演の他、製作者としても活躍を続けている。
1963年、28歳、女優のナタリーと結婚、1人の子どもをもうけるも、4年後の1967年、32歳にて破局。1987年、52歳、モデルのロサリーと結婚、2人の子どもをもうけるも、14年後の2001年、66歳にて破局した。一方、ナタリーと破局後、歌手のニコと親密な関係になり1人の子どもをもうけているが、結婚、認知はせずに現在に至る。チョコレート、スフレが好き。格闘技のファン。1971年、36歳の頃から香水のブランドを断ち上げており、品名はサモーライ《SAMOURAI》、ショーグン《SHOGUN》、47サモーライ《47SAMOURA》と、江戸風味溢れるものとなっている。
ちなみに、彼の香水ブランドの品名であるが、これは三船敏郎の持つ侍の強烈なイメージに影響され、名づけられたものである。三船敏郎とは1971年、36歳、フランス、イタリア、スペイン合作の西部劇作品『レッド・サン』での共演以来の親交となる。同作品は当初、三船プロからパラマウント映画へ持ち込まれた企画であったが、当時主流だった007シリーズを始めとするスパイ映画に属さないとして却下され続けた。そして企画の売り込みから5年後、ようやくフランスの映画会社に承諾され、実現した。尚、同作品の監督はテレンス・ヤング。奇しくも、『ドクター・ノオ』、『ロシアより愛をこめて』、『サンダーポール作戦』と、007初期シリーズを手掛けた監督である。続けて余談となるが、テレンスは映画監督になる以前、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線にて負傷をし、オランダの病院で看護婦をしていたオードリー・ヘプバーンに看病をしてもらった事がある。それからおよそ20年後、彼はオードリー主演のサスペンス作品、『暗くなるまで待って』を製作する。何とも数奇な巡り合わせである。
ムービーデータベース(IMDb、英語)Alain Delon (IMDb、英語)