淀川長治(1909~1998)
『ハリーポッター』で一名を成したJ.K.ローリングが、最終巻の出版後の会見にて唐突な裏設定を明かし、話題になった事がある。彼女によると、物語の根幹を成す主要な男性登場人物2人が恋愛関係にあったと言うのだ。この一事と同様、ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演『太陽がいっぱい』においても、主役2人が実は同性愛関係にあったと独特な見解を示した映画評論家がいる。それが、淀川長治(ながはる)である。一片の悔いなき素晴らしき映画人性を送り、日本人にその映画の素晴らしさを伝え続けた、名評論家である。

1909年、日本の神戸にて生まれる。両親は神戸名門の芸者置屋経営者。6人兄妹である。出生は少々複雑であり、父の前妻の姪が実母に当たる。前妻は病弱であったが子どもが欲しかった為、自分の姪、りゅうを夫の愛人に推薦した。長治が生まれると前妻が母親となるが、その数日後に逝去。父はりゅうと再婚した。尚、りゅうが産気付いたのは活動写真(映画)の鑑賞中であったというエピソードが残っている。映画館の株主でもあった両親の影響で、少年時代から深く映画に親しむと共に、映画雑誌などへの意見投稿を積極的に続ける。1927年、18歳、日本大学文学部に進学するも、中退。同年、映画雑誌『映画世界』の編集者として活動を始め、1929年、20歳、一時的に姉の経営する輸入雑貨店を務めた後、1933年、24歳、MGM社系列の映画会社への入社を果たす。その映画への情熱と才能が買われ、広報担当者に任命。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン出演の西部劇傑作『駅馬車』の商業的成功を導いたり、1939年、30歳、「私の神様」と愛してやまないチャーリー・チャップリンとの会談を実現させたりと、広報者として大きな貢献を示す。1942年、33歳にて東宝映画へ、1945年、36歳にてアメリカ配給会社へ、1947年、38歳、映画雑誌『映画の友』へ――といった移籍を経て、後者雑誌の編集長として活躍。この時期から、映画評論家としての本格的なキャリアが始まる。1960年、51歳の頃からテレビ番組への出演が始まり、1966年、57歳、名作洋画を放映する長寿番組『日曜洋画劇場』の解説者に抜擢。情熱的な映画への愛情、豊富な知識、柔和でユニークな語り口調が人気を博し、質実共に映画評論家としての地盤を固める。以後も映画評論家として映画芸術の伝道者として活躍を続けた後、1998年、89歳にて永眠する。
生涯独身を通した。本人が明言している訳では無いが、著作やコメントの端々から察して、同性愛者であったというのが通説である。映画の他、歌舞伎、人形浄瑠璃、バレエといった舞台芸術の大ファン。後に『シベリア超特急』シリーズでお馴染みの映画監督、そしてテレビ映画番組『金曜ロードショー』の解説者として親しまれた水野晴郎と深い親交がある。晴郎とは1939年、38歳の頃に設立した映画愛好サークル、「東京映画友の会」で知り合った。同愛好会は現在も継続されている。
ちなみに、1956年、47歳、第二次世界大戦終了後の沖縄を舞台にしたコミカルな物語、マーロン・ブランド、京マチ子主演のハリウッド映画『八月十五夜の茶屋』にて、淀川長治がカメオ出演を果たしている。米の配給をしている端役が彼だと言うのだが、じっくりと確認しない限り判別は困難であり、また、じっくり確認しても判別は困難である。
さて――筆者はこう加える。映画芸術の創作と享受がこれほどまでに繁栄したこの時代は、かえってその膨大な世界観により、どの作品に鑑賞する価値があるのかが不明瞭な状態である。テレビ番組の映画放送は、こうした不明瞭な芸術世界に一筋のガイドラインを示して欲しい所であるが、淀川氏や水野氏の逝去以来、各洋画鑑賞番組の質は低下する一方である。既に幾度となく放映されているアニメ映画、元々話題性のある映画など、安易な突貫工事が続いている。個人では手に入りにくい古典傑作、真に芸術性やメッセージのある隠れた名作をこそ、取り上げてくれねばならぬ。そこに、テレビ放送の意義があるのだ。先天的に視聴率の獲得を目的とするのではなく、良質の番組を築き上げる事で後天的に視聴率が上がる結果となる――是非とも、そうあって欲しい。諸賢よ、映画を流すだけではなく、映画を伝えようではあるまいか。映画を愛するだけではなく、映画を語ろうではあるまいか。諸賢よ、今一度、やり直そうではあるまいか。
ムービーデータベース(IMDb、英語)Nagaharu Yodogawa (IMDb、英語)