ジュディ・ガーランド(1922~1969)
ブロードウェイの名プロデユーサー、フローレンツ・ジーグフェルドを題材にしたレビュードラマ作品、『ジーグフェルド・ウォーリーズ』にてフレッド・アステアと共演している女優、それがジュディ・ガーランドである。彼女の演技、歌、ダンスには抜群の才能があり、銀幕における存在感は見事の一言である。一方、私生活上ではハリウッドのショービジネス界における典型的な破滅型であり、性、麻薬、精神疾患によって早くに逝去した、哀しい女性でもある。

1922年、アメリカのミネソタにて生まれる。本名はフランシス・エセル・ガム。父はスタンダップ・コメディアン、母はピアニスト。3人姉妹である。幼少時代から父や母の手ほどきを受け、1929年、7歳から姉妹によるショーグループ「ガム・シスターズ」として活動を始める。1935年、13歳、MGM社との専属契約を果たす。ただしこの専属契約には裏事情があり、当時のプロデューサーの1人、アーサー・フリードという中年男は、《Casting Catch》――言わば、性的関係を条件に契約を承諾するという手法を取る堕落した卑劣な人間で、ジュディも彼との性的関係を持った事で専属契約を取得した。こうして、栄光と破滅の一歩を踏み出した彼女は、更に紙一重の道を歩む。比較的ふくよかだったジュディに対し、MGM社は極度のダイエットを要求。彼女はこれに応える形で、覚醒剤、アンフェタミンを常用し始める。映画へ出演しキャリアを重ね、1939年、17歳、『オズの魔法使』へ出演、同作品の成功と共に大人気を博し、レビュアーとしての地盤を確固たるものにする。一方でこの大人気により仕事が急増した事から不眠状態となり、覚醒剤に加えて睡眠剤を常用し始める。以後、『若草の頃』、『イースター・パレード』、『踊る海賊』などのミュージカル傑作作品への出演を続けるが、薬物症状がもたらす各種疾患に犯され始め、1947年、25歳にてサナトリウムへ入院。同年、自殺未遂を経験。1949年、27歳、『アニーよ銃をとれ』の主役に抜擢されるも、撮影中に精神錯乱状態に陥り、降板。1952年、30歳、ビング・クロスビーら友人たちの勧めでハリウッドから一時離れ、ジャズ歌手として活躍を始める。1954年、32歳、『スタア誕生』にて映画復帰を果たし、同作品の好演によってアカデミー主演女優賞にノミネートされるも、同時期、麻薬依存と精神疾患から抜けられず、自殺未遂を繰り返す。同年、映画界から離れ、レビュアーの歌手の活動に専念。1969年、47歳、睡眠薬の多量摂取により自殺し、永眠する。名声に伴い莫大な収入がある筈であったが、彼女の跡に残されたのは数々のミュージカル傑作映画と共に、400万ドル、約3600万円の借金であった。遺体は度重なる麻薬常用により、さながら老人のようであったと言われている。
5度の結婚暦がある。2回目、1945年、23歳にて結婚した映画監督、ヴィンセント・ミネリとの間に1人の子どもが、3回目、1952年、30歳にて結婚したシドニーとの間に2人の子どもがいる。先述の通り麻薬中毒であるが、アルコール中毒者でもある。性的経験が豊富であり、同性愛、バイセクシャルの傾向も許容している。尚、彼女の父、及びヴィンセント・ミネリは、バイセクシャルである。
ちなみに、半世紀前の遅れた倫理観、科学感の産物として、麻薬と呼ばれる物質に対する危機感の無さを示す事が出来、ジュディはまさにそうした負の傾向に飲まれた内の1人であると言えよう。覚醒剤、睡眠薬などの精神剤は、当時のアメリカにおいて危険性の認識はほぼ無いと言え、むしろMGM社はジュディにこれらの薬剤使用を強く勧めていたぐらいである。ジュディの家族や知人らは「彼女はハリウッドに殺された」と嘆き悲しんでいるが、実際、それはあながち間違いとも言い切れぬ所がある。尚、それこそ極々近年までこうした傾向は続き、第二次世界大戦やベトナム戦争など、麻薬は頭痛薬程度の感覚で使用がなされていた。22世紀に向け、少々言葉に警鐘の意を込めたらどうだろう。麻薬《Narcotic》を、魔薬《Jarcotic》にするとか。(※英語Narcotic《麻薬》は、Narcosisi《昏睡状態》から派生した語。Jarは、不快感、不安感などの意。)
ムービーデータベース(IMDb、英語)Judy Garland(IMDb、英語)