フレッド・アステア(1899~1987)
ジーン・ケリー主演のミュージカル映画『ジーグフェルド・フォリーズ』、『ザッツ・エンタテインメント パート2』にて共演している俳優、それがフレッド・アステアである。MGM社の二枚看板として、ジーンと共にハリウッド黄金時代を支えた素晴らしいレビュアー、そして俳優である。洗練された見事、それでいて格式ばらず斬新、軽快で愉快な彼の踊りは、間違いなく20世紀の誇るエンターテイメントと言えよう。あまりミュージカルに親しみの無い我々日本人でも、あるいはオードリー・ヘプバーン共演『パリの恋人』のフレッドの見事なダンスシーンを目にした事もあるやしれぬ。

1899年、アメリカのネブラスカにて生まれる。本名はフレデリック・アウステルリッツ。ドイツ系とユダヤ系の血筋。姉がいる。1903年、4歳、ショービジネス界への憧れの強かった母親の強い勧めで、姉アデルと共に音楽、ダンス教室に通わされる。当初は当惑していたフレッドであるが、みるみる才能を発揮。ピアノ、アコーディオン、クラリネットなどの管弦楽器、そしてダンスの技術を磨き上げる。1906年、7歳頃からアデルと共にアメリカ各地をショー巡業をする日々が始まり、キャリアを磨く。1916年、17歳、同じくアデルと共にブロードウェイの舞台へ初出演を果たし、2人はそのままコンビで活躍、1920年、21歳の頃には大きな人気を獲得し、エンターテイナーとしての地盤を固めた。1931年、32歳、アデルが結婚を機にショービジネス界から引退したのを契機に、映画への道を歩み始める。1933年、34歳、『ダンシング・レディ』にて映画初出演を果たし、人気を博する。同年、注目され始めていた名レビュアー女優、28歳のジンジャー・ロジャースとコンビを組み、彼女と共に『空中レビュー時代』、『トップハット』、『有頂天時代』などの映画へ出演、コンビは大人気を博するに至る。1939年、40歳、ロジャースが独立を希望し、コンビを解消。映画への出演を続けるが、人気に陰りが差し込む。1948年、49歳、『イースター・パレード』の主演ジーン・ケリーが怪我により降板、代役として主演を演じ、同作品における好演で再び脚光を浴びる。以後、『足ながおじさん』、『パリの恋人』、『ザッツ・エンターテイメント』などのミュージカル作品を中心に活躍を続ける。後年は『渚にて』のようなヒューマンドラマ作品、『タワリング・インフェルノ』のようなアクション作品にも出演、ダンスなしの見事な演技を披露せしめ、後者においてはアカデミー賞助演男優賞にノミネートされている。1970年、71歳頃から仕事を控えているが、ダンスの鍛錬は欠かさず続けた。1987年、88歳、永眠する。
1933年、34歳、ボストンの大富豪の令嬢、フィリスと結婚、2人の子どもをもうけるも、21年後の1954年55歳にてフィリスの逝去により離別。1980年、81歳、35歳の女性騎手ロビンと結婚、生涯を共にした。後者の結婚は大きな年齢差があるものの、二人はとても愛し合っていたとのこと。ハリウッド黄金期を飾る大スターであるが、性格は控え目で、派手な社交場面をあまり好まなかった。
ちなみに、1983年、フレッド84歳の頃、当時の名楽曲「ビリー・ジーン」におけるムーンウォークに感動し、マイケル・ジャクソンから直接ムーンウォークの指導を受けた事がある。それだけの年齢で向上心と好奇心を失わずにいるのは驚嘆に値するのだが、その上、彼はすぐにムーンウォークを修得してしまったとの事である。脱帽である。
ムービーデータベース(IMDb、英語)Fred Astaire(IMDb、英語)