ジョン・フォード(1894~1973)
アメリカの英雄と評される西部劇の名俳優、ジョン・ウェインを『駅馬車』に起用し、それ以来彼と共に様々な傑作作品を生み出した監督、それがジョン・フォードである。彼の描いた作品――殊、西部劇は、従来のドタバタ銃撃戦からヒューマンドラマを交えた芸術作品として仕上がっており、その情緒豊かな描写から、人びとは彼を「映像の詩人」と評している。
1894年、アメリカのメインにて生まれる。本名はジョーン・マーティン・フィーニイ。両親はアイルランド移民、父は農業、漁業、工業、カフェ経営者を経て、市会議員を務めた。3人兄弟の末っ子である。1914年、20歳、高校卒業後、ユニバーサル映画で働いていた兄フランシスを頼り、カリフォルニアへ移住、自身も同社で働き始める。エキストラ出演、大道具などの雑務を行いながら映画撮影の経験を積み、1917年、23歳、兄フランシスの二日酔いによって助監督を代役、この働きぶりが評価され、同年、初監督を任される。幾つかの西部劇作品を描いた後、1920年、26歳、20世紀フォックスへ移籍。『アイアン・ホース』、『モホークの太鼓』、『駅馬車』など、着実に撮影技法の才能を磨き上げながら、映画監督としての地位を確固たるものにする。1939年、35歳、第二次世界大戦が勃発するとアメリカ海軍に従軍し、野戦撮影班として参戦。海軍少佐として太平洋戦線、ヨーロッパ戦線に赴きながら、『ミッドウェイ海戦』、『真珠湾攻撃』といったドキュメント作品を仕上げる。終戦後は『黄色いリボン』、『西部開拓史』、『騎兵隊』など、再び西部劇作品を中心に傑作を描き続けた。『男の敵』、『怒りの葡萄』、『わが谷は緑なりき』、『静かなる男』にて4度のアカデミー監督賞を受賞しているが、この記録は未だに破られていない。1966年、72歳、『荒野の女たち』にて映画監督を引退。1972年、78歳、永眠した。
アイルランド人の愛国的気質を持ち、作品の中にはアイルランドへの郷愁的な愛情が散りばめられている。ジョン・ウェインを始め、起用した俳優のほとんどがアイルランド系。1948年、54歳の頃からハリウッド界に蔓延した「赤狩り」をひどく嫌い、この風潮を支持していたセシル・B・デミル監督を毛嫌いしていた。
ちなみに、彼の好んだロケ地はユタ州のモニュメント・バレー。ずんずんと聳え立つ深黄茶の岩山が圧巻な、何とも西部らしい西部の土地である。先住民ナホバ族の居留地であり、ラスベガスからはバスで6時間ほどの位置にある。
ムービーデータベース(IMDb、英語)John Ford (IMDb、英語)