エルヴィス・プレスリー(1935~)
エリア・カザン監督、『欲望という名の電車』にて、ヴィヴィアン・リーと共演したのがマーロン・ブランドであるが、このブランドの独特な演技の雰囲気に大きく影響された、世界一成功したソロアーティストがいる。それが、エルヴィス・プレスリーである。世界が電子機器で繋がって以来、この地球には全世界を席巻するような音楽家が幾人か誕生しているが、紛れもなく彼もその1人であろう。派手で華やか、かつ潔い音楽、ロックンロールを築き上げた人物である。
1935年、アメリカのミシシッピにて生まれる。本名はエルヴィス・アーロン・プレスリー。アイルランド、ドイツ系ユダヤ、先住民チェロキー族などの血筋。父は農作人、母は洋裁人。家計は困窮しており、家はキッチンと寝室の2部屋。この家は散弾銃を撃てば突き抜けてしまう大きさである事から、《Shot Gun House》と呼ばれていた程である。とは言え、幼少時代、彼は両親から愛され、特に南部人としては珍しく偏見を持たず黒人たちと親しく接していた。1940年、5歳、唯一の娯楽とも言うべき教会にて、聖歌隊に所属、歌に親しむ。1948年、13歳、多少の余裕を得て公営住宅へ移住、地下室でギターの演奏練習を始める。1953年、18歳、高校卒業後は金属工、トラック運転手といった仕事と並行しながら音楽の才能を磨き上げ、翌1954年、19歳、サン・レコードと契約、ブルースやカントリー名曲の快活なカバー曲を発表する。1955年、20歳、RCAレコードに移籍、この頃から本格的に黒人音楽のテイストを取り入れる形で斬新なロックンロールの世界観を築き上げ、絶大な人気を博し始める。『ハートブレイク・ホテル』、『ハウンドドッグ』などの楽曲で大成功を収める一方、1956年、21歳からは『やさしく愛して』、『さまよう青春』、『闇に響く声』、『監獄ロック』といった映画の主演も務める。1958年、24歳、アメリカ陸軍から徴収を受け西ドイツへ従軍し、1960年、26歳にて任期満了、再びショービジネス界へ復帰。以後、あまり乗り気では無いながらも映画への出演を続ける一方、『サレンジャー』、『サスピシャス・マインド』、『声の届かぬラブ・レター』など、ロックンロール傑作を次々に描く。1977年、43歳、心臓発作により永眠する。
1967年、33歳、ドイツの所属部隊長の継子、プリシラと結婚し1人の子どもをもうけるも、6年後の1973年、39歳にて破局。アメリカ陸軍在籍時に空手を修得しており、黒帯の実力がある。1965年、プレスリー30歳の頃、同時期に世界に感動を与えていた音楽家であるビートルズとの会談が実現しているが、25歳のジョン・レノンがプレスリーを蔑む態度を取り、それ以来の親交は無い。これは政治的な見解の違いが原因だと言われている。ありとあらゆる慈善団体に匿名での寄付をしていた。マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンの大ファン。ディーン主演映画『理由なき反抗』におけるディーンの台詞を暗記していた程である。
ちなみに、プレスリーの生まれた小さな家は、現在も立派に残存している。アメリカ南部、ミシシッピ州のトゥペロという田舎町に、その白い木造ドイツ下見の平屋がある。都市メンフィスからバスで1時間ほどの位置。アメリカ南部は温泉保養地ホット・スプリングス、ウォルト・ディズニー社の本拠地フロリダ、バカンスと情熱のマイアミ、ジャズの聖地ニューオーリンズなど、独特の味を持つ街が数多く点在する。こうした街々の観光も兼ね、足を運んでみると良かろう。尚、一部データに拠ると、プレスリーの生家を訪ねる外国人第一位は、日本人という事らしい。本当に我々は、どこにでも行き、どこにでもいる。
ムービーデータベース(IMDb、英語)Elvis Presley (IMDb、英語)