ウディ・アレン(1935~)
ユマ・サーマンが出演の志願をした『ギター弾きの恋』の監督、脚本を担当している人物、それがウディ・アレンである。ユマのみならず、自身の演技力を世に打ち出したい俳優たちは、ウディの手がけた作品への出演を望んでいる。冒頭クレジットのクラシカルなフォントに始まり、軽快で皮肉なジョークと演出、緻密な人間描写――独特のスタイルを貫き通すこの映画人は、既に映画界におけるひとつのオベリスクといっても溢美に当たるまい。
1935年、アメリカのニューヨークに生まれる。東欧のユダヤ人家系で、祖父たちはナチスの迫害から逃れて渡米した人々だ。父は宝石職人。妹がいる。本人の言うところなれば、家族はそれぞれに個性が強く混沌としており、特に癇癪持ちの母親との関係は複雑だったらしい。学生時代カード・マジックに没頭し、高校を卒業した1951年、16歳にてマジシャンとしてのプロデビューを果たす。この頃、マジックとは別にクラリネット奏者としての才能もあった。が、自らの才能を見つめ直しあっさりとマジシャンの道を捨て、ニューヨーク・ポストなどの雑誌に小噺風のジョークを投稿し始める。このコメディアン作家としての才能はすぐに注目され、芸能エージェントに認められスカウト、1952年、17歳からはジョーク・ライターとして活動を始める。1953年、18歳、ニューヨーク大学に進んで映画製作を専攻するも、さぼり癖にて中退。続いてニューヨーク市立大学に進むも、こちらも中退。これを見かねた母が立ち回って、息子にテレビや舞台における放送作家の仕事を与え、これをライターと兼任させる。ここで彼の実力は質実共に認められる事になるが、本人は放送作家の仕事に退屈し始め徐々にやる気を無くし、1959年、24歳には精神科へ通院する程の憔悴状態となる。1960年、25歳、プロデューサーの説得によって1人舞台のコメディアンとして活動を始める。次第に実力を上げると、彼に対する役者としての評価もぐんぐん上昇して行った。1962年、27歳、ニューズウィーク誌の絶賛を皮切りに、映画界へ。以後は主に監督・脚本・主演というスタイルで、次々と傑作と評される作品を世に送り出して行く。
結婚暦は3回。現在の妻は韓国人の女優スン・イーで、1997年、62歳の頃に結婚した。スンは当時21歳である。少々複雑な関係であるが、彼女はウディの前妻、女優ミア・ファローの養子である。ウディとミアとの間には彼らの子どもが1人、そしてそれぞれ1人ずつ養子を受けており、このミアの方の養子とウディが恋をしたという形になる。
ちなみに、1977年、42歳の頃に製作した作品『アニー・ホール』ではアカデミー監督賞、最優秀作品賞を受賞しているのだが、至って賞というシステムに無頓着かつ嘲笑的であるウディ、授賞式に颯爽と欠席をし、小劇場の舞台を優先している。
ムービーデータベース(IMDb、英語)Woody Allen(IMDb、英語)