イングリッド・バーグマン(1915~1982)
ウィリアム・ワイラー監督のコメディ大傑作『ローマの休日』のプレミア試写会に参加し、オードリー・ヘプバーンのあまりに見事な演技力に感動して号泣した女優、それがイングリッド・バーグマンである。凛々しい表情と仕草から透き通るような清らかさ、それと共に信念のある力強さを演じられる人物である。
1915年、スウェーデンのストックホルムにて生まれる。スウェーデン人の父、ドイツ人の母。父は写真家である。1918年、3歳にて母の逝去、1928年、13歳にて父の逝去があり、叔母の元に引き取られる。父はイングリッドにオペラ歌手になって欲しいとボイストレーニングを積ませていたが、彼女が真に興味を抱いていたのは女優への道であった。1933年、17歳、スウェーデン王立演劇学校に合格。勉学を重ねると共に、舞台の端役などで経験を重ねる。1935年、19歳、アメリカへ移住。『ムンクブローの伯爵』にて映画初出演を果たすと、1939年、23歳にて『別離』、1942年、26歳にて『カサブランカ』、1944年、28歳にて『ガス燈』と立て続けに傑作作品への主演を演じきり、一気にスターダムを駆け上るに至る。1949年、33歳、イタリアにおける社会派の映画監督、『無防備都市』や『ドイツ零年』などで有名であったロベルト・ロッセリーニの作品を鑑賞して感動した余り、分別を無くす。夫、子ども、ハリウッドの仕事を投げ捨て、ロベルトの元に駆け込む形でイタリアへ移住。この行為に対し、アメリカ国内では大批判が巻き起こり、ハリウッドを追放される。1956年、40歳、アメリカへ戻り、ハリウッドへ復帰。アガサ・クリスティ原作『オリエント急行』、ヘミングウェイ原作『誰が為に鐘が鳴る』といったヒューマンドラマ作品への主演を続け、再び脚光を浴びる。1982年、67歳にて永眠。
1937年、22歳にて医者のアロンと結婚、1人の娘をもうけるも、先述の騒動により13年後の1950年、37歳にて破局。同年、先の映画監督ロベルトと結婚し3人の子どもをもうけるも、映画製作の見解が合わず、7年後の1957年、42歳にて破局。翌1958年、43歳、プロデューサーのラーズと結婚した。「私の成功は富と名声ではなく、才能と情熱の中にある」という彼女の言葉の通り、女優という職業に対して並々ならぬ誇りを感じていた。
ちなみに、ハリウッド追放の一事によって当時におけるほぼ全ての友人を失った彼女ではあるが、ただ唯一、アルフレッド・ヒッチコック監督作品でお馴染みのケーリー・グラントだけは彼女との親友関係を続けていたと言う。彼とは1946年、30歳、アルフレッド・ヒッチコック監督『汚名』にて共演して以来の友人である。
ムービーデータベース(IMDb、英語)<a href=" http://www.imdb.com/name/nm0000006/" target="_blank">Ingrid Bergman (IMDb、英語)</a>